2016年12月25日日曜日

企業法務の法意識 2016

企業特殊的技能

企業特殊的技能とは、社員の技能開発において企業は「なるべく他社では通用しない企業特殊的な技能を提供」し、「 企業は自社の負担で技能を身に付けた社員が 離職しないよう、年功型の賃金体系を採用し、 長期雇用を前提とした人事・労務制度を開発」すること(大杉謙一 @osugi1967 「日本的経営とコーポレート・ガバナンス」)。

大杉先生から引用しましたが、この企業特殊的技能論は経営学や経済学で教科書的スタンダードです。で、事業会社管理部門の中の人として以前からここに疑問を持っておりました。

今なら言える。
「そんな大したことしてません。すいません。」

教育はしているけれど、そんな独自性を持ったことはしていないしできません。まして企業規模が大きくなって講師や講座を外注するようになると一般的なものにならざるを得ませんし、こちらも一般的スキルをあげて欲しいと考えてプログラム設定しているのです。
いやここでいう技能とは異動や飲みニケーションによる人的コミュニケーションを指しているのだという指摘もあるでしょう。しかし大きな会社になると社員が多い上にお互い異動があるからそれらのネットワークは10年20年スパンで見ると年功序列賃金を正当化するほどの価値があるとは思えません。ちなみに企業内の最も強力なネットワークは年次ごとの新卒集団でしょう。
いずれにせよ、社内教育あるいは社内投資の結果としての何らかのスキルが蓄積し、毎年給与を上げてそれを引き止めるという実感はありません。

企業特殊的技能論は、日本的企業では一般的に年功序列で賃金が上がっていくのに転職すると以前の賃金を大きく下回るのは、今いる会社でのみ通用し経済的に評価されているファクターがあるはずだとして考え出されました。しかし実際にはそれは教育とか特段の技能とかネットワークとかではなく(それらもないではないにせよ)、シンプルに長く在籍していること自体なのかもしれません。

研究者にはウケが悪そうです。すいません。。。

肌感覚での私見を付け加えれば、英語教育で会話を重視してもなおTOEICが採用されるのと根は同じで、誰でも努力すれば成果に反映する点、誰にでもチャンスが開かれている点で「在籍の長さ評価」は日本的企業と相性が良いのだなぁと思うし、また同様に一部の方からは目の敵にされるだろうなぁと思うのであります。

切り分けるか、内部化か

河合隼雄は日本社会は包摂、欧米社会は切断と評しました。
取引コスト的に言えば、日本的企業は境界線を押し広げ包含する対象を拡大することによってリスクを平準化し、交渉を権限による指示へ置き換え、機会主義的行動を回避してきました。そして支払いと受取りの清算を限りなく将来へ繰り延べることで永続的な貢献を構成員から引き出します。バーナードのいう協働意志とコミュニケーションが組織の目的に優先するところに日本的企業の特徴があり、それが前述の「在籍の長さが驚きの高評価(ただし自社内に限る)」に帰着すると思うのです(2014年エントリ参照)。

こうして所属企業への献身を「いること」によってアピールし続ける必要があると結果的に長時間拘束を招きやすくなります。長時間労働の一部である長時間拘束を是正するには、それだけではなく新しい働き方を実現していくには、現状の強固なメカニズムを理解し適切な仕組みを考えることが必要と思われます。

一方で、その反対に可能な限り切り分け、時間軸の「今」だけを切り出す文化があります。そこでは過去の蓄積たる剰余金を「今」の株主に配当しても、さらに会社を解散して残余財産を分配して役職員が職を失っても十分に合理的たり得るわけです。

こう考えた場合、企業の今をスナップショットで切り取って日本企業の生産性や資本効率が低いという批判の妥当性は疑問なしとしません。正確に言うなら、指摘は正しいかもしれないが無批判な批判は如何なものか。比較は apple to apple でお願いします。 

切り分けず包摂する文化と、できうる限り小さく分解する文化。
前者はリスクの平準化すなわち構成員の人生のボラティリティを極力小さくするという社会と共有する合意があり、後者には競争によって資源の効率的利用を実現するという異なる合意があります。
これまでは後者=欧米文化が先行しており、他の文化はそれに追いつく過程であるという優劣認識が一般的でしたが、近年の国際情勢を受けて必ずしもそうではないという見方も浮上しています。

余談ですが、先に引用した大杉先生の論文「欧米企業と日本企業では、企業と労働者の関係が異なった原理により構成されている。両者の間には 単純な優劣の関係はない」のくだりに感銘を受けました。経営に関する論文はたいてい「日本遅れてる」ですからね。


上部構造と下部構造

この状況認識を企業法務に引き直すと、現代法制度の前提となる「個」と「今」への還元と合理的行動が我々の目指す絶対的真理でなくなってしまうとすれば、なかなか到達できないもどかしさに怨嗟の言葉を吐きつつも「そこへ向かって移行中」という言い訳によって内的に解消していた「そうでない」日本の現状との矛盾が解消の見込みなく目の前に放り出されてしまうわけで、そのとき西洋的近代概念の上になんとか建て付けてきた諸制度と今のこの国の有り様との関係をどう整理し折り合いをつけていくのか、深刻な問いを突きつけられると思うのです。

明治維新後に夏目漱石が悩んだように、先の大戦後に川島武宜が『日本人の法意識』で「ずれ」を指摘したように、21世紀の我々もまた模索しつつ進んで行くしかないのでしょう。

「世界がもっと豊かで平和になるためにも、日本の価値観がもっと広まった方が良いと信じているからです」「だから日本人にも、日本の企業にも、「もっと合理的に準備してから、精神的に戦う」ノウハウが必要なのです。」(森岡毅・今西聖貴『確率思考の戦略論』)


2016年legalACを締めくくる前に。
legalACを取りまとめてくれた @overbody_bizlaw さま、毎日興味深い話題を書いてくれた参加者の皆さま、読者の皆さま、お疲れ様でした&ありがとうございます。

本年もお世話になりました。
いろいろな変化が待ち受けていそうな2017年も明るく前向きにいきましょう。

kurarix